富士通のパソコン40年間ストーリー【1】第1号マシン「FM-8」の舞台裏
富士通のパソコン出荷台数の推移
今回の連載では、日本のパソコン産業を支え続け、パソコン市場をリードしてきた富士通パソコンの40年間を振り返る。なお、掲載済みの記事にも新たなエピソードなどを追加し、ユニークな製品にフォーカスしたスピンオフ記事も掲載していく予定だ。その点も含めてご期待いただきたい。
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「FUJITSU MICRO 8(FM-8)」とは
改めて、1981年5月20日に富士通初のパーソナルコンピュータ「FM-8」が発売となった。正式名称は「FUJITSU MICRO 8」であり、初めて「FM」の名を冠した製品だ。FMシリーズの冠は、40年を経過した現在でも「FMV」として使われているのは周知の通りだ。日本で最も歴史を持つPCブランドだと言える。
製品発表時には「半導体ビジネスで培った信頼の技術を結実させた製品」と富士通が表現したように、FM-8は2CPU方式を採用するとともに、64KbitダイナミックRAM×8個を実装。ユーザーメモリ領域として64KBを確保するために、アドレス空間を128KBに拡張するなど、「最新鋭のLSIを随所に使用した贅沢な設計を行ったパソコン」(富士通)として登場した。
当時、販売店やユーザーの間では「重戦車並みの装備」とも言われ、性能の高さは折り紙付きだった。CPUには、モトローラ「MC6809」互換の8ビットマイクロプロセッサ「MBL6809」を2個使用。正式には、メインCPUに「MBL68A09(1.2288MHz)」、サブCPUに「MBL6809(1MHz)」を搭載していた。
ソフトウェア環境としては、マイクロソフト「Microsoft BASIC」に各種機能を追加した「F-BASIC」をマスクROMで実装。UCSD PASCAL、FLEX、CP/MといったOSも、フロッピーディスクを通じて利用できた。
FM-8はシステムの拡張性にもこだわった製品だ。オプションのCRTディスプレイやミニフロッピーディスクドライブのほか、市販のオーディオカセット、家庭用テレビとの接続も提案。CRT制御にはサブCPUを用い、640×200ドット表示のドット単位で8色の色指定を可能とし、高分解能のカラーグラフィック表示能力を持っていた。
漢字キャラクターユニットやプリンタも用意しており、JIS第一水準漢字(2,965字)のほか、ひらがな、カタカナ、アルファベット、数字、特殊記号など、453字の表示、印刷が可能だった。さらに、32KBのバブルカセットを2台まで同時に使えるバブルホルダーユニット、ライトペンやプロッタ、標準フロッピーディスクドライブ、10MB・20MBのマイクロディスクも用意。別売りの拡張ユニットと各種モジュールを接続することで、音声合成、計測制御、高速演算といった用途にも利用できた。
1981年当時、富士通で半導体事業を統括していた安福眞民氏(のちに富士通副会長、富士通ゼネラル社長)は、「FM-8は斬新な設計と、最新の半導体技術を採用した製品。RS-232Cインタフェースを装備し、メインフレームのFACOM Mシリーズとの接続も可能にしていた」と発言。富士通ではFM-8を、「ホビー用途に加えて、オフィスの事務処理、商店の経営管理、科学技術計算、教育ツールなど、あらゆる分野で利用してもらうために、機能の多角化とシステムの拡張性を高めた。広範なユーザーニーズに応えられるように開発した最新鋭のパーソナルコンピュータ」と位置づけた。高い基本機能や拡張性の追求は並大抵のものではなかった。
パソコンが普及することは分かっていた
FM-8の発売に合わせて、富士通はパソコン専門店の特約店制度もスタート。これがその後の「FMショップ会」につながる。
最初に名乗りをあげたのは、アスターインターナショナル、内田洋行、関東電子機器販売、日成電機製作所の4社。FM-8のニュースリリースで「特約店は、SE、CEの技術レベルも豊富であり、FM-8の販売にふさわしい十分なサービスが提供できる」と表記していたことからも分かるように、販売面においてもビジネスユースを強く意識したパソコンだった。
発売から1週間後の1981年5月27日に開幕した「マイクロコンピュータショウ '81」では、富士通のブースにFM-8を展示。デモストレーションには多くの来場者から注目が集まった。
実は、FM-8の発売とともに、富士通では社内販売が実施されている。当時の資料によると、社員からの購入申し込みは500台以上に達し、目的の多くは「勉強」であったという。今後、富士通社内にパソコンが普及することを予想した社員たちが、率先してFM-8を購入したようだ。FM-8発売の翌月となる1981年6月に富士通の社長に就任した山本卓眞氏も、自宅でFM-8を使用していたことを明かしている。
ちなみに、電算機(メインフレーム)の開発者であった山本氏は、社長就任時に「大艦巨砲主義を捨て、パソコン、ワープロ、ファクシミリなどの基盤製品を充実させる」と宣言。パソコン事業を重視する姿勢を打ち出してみせたが、その第1歩がこのFM-8。自らもパソコンを使用し、その将来性に期待を寄せていたようだ。ここでいう「基盤製品」というのは、当時の富士通が社内で使っていた独自の用語。大型コンピュータなどのビジネスとは異なり、コンシューマニーズを含めて幅広いユーザーに使われる製品のことを指していた。
FM-8の一般購入者を対象に行ったアンケート調査の結果も残っている。それによると、FM-8の購入した目的の50%が勉強用、25%がホビー用、25%が業務用だったという。この調査結果を見た富士通社内の関係者は、「いまは勉強用に購入している人たちが多いが、その人たちが今後はパソコンを業務に使うことになるだろう」と分析。将来的には、ホビーユースよりも業務用途でのパソコン利用が広がることを、このデータから予測していた。
パソコン市場への参入自体は遅かった
振り返って、富士通のパソコン市場への参入は決して早くはなかった。日本では、1978年10月に日立製作所が「ベーシックマスター L1」を、同年12月にシャープが「MZ-80K」を発売。NECも1979年9月に「PC-8001」を発売した。1981年5月のFM-8発売は、日立のベーシックマスター L1から2年7カ月遅れ。NECのPC-8001からは1年8カ月遅いのだ。
なぜ、富士通のパソコンは市場投入が遅れたのだろうか。最大の理由は、開発チームにとって「富士通が投入するパソコン」というこだわりや意気込みがあまりにも強かった点だろう。社内にはこんな逸話が残る。
ある日、若手技術者が発売されたばかりのPC-8001を入手し、それを見ながら社内で議論が始まった。本体の内部構造を見て出した結論が、「これならば、すぐに作れる。当分は動きを静観してもいいだろう」というものだった。裏を返せば、富士通が市場投入するパソコンは、いま市場にある製品よりも高性能であるべきだという判断を下したのだ。
FM-8の開発プロジェクトは、実はかなり早い段階からスタートしている。慌てて製品化するのではなく、富士通らしいパソコンを投入できる時期が訪れるまで待ったというのが実態のようだ。「最初から考えていたのは漢字ROMを搭載すること。富士通が投入するパソコンであれば、業務利用が前提となる。その姿勢は最初から崩さなかった」と、当時の関係者は語る。
この考え方が他社から約2年遅れとなったわけだが、待ちの期間はプラスに働いた。技術革新が進んで64Kbit DRAMの量産体制が確立し、日本語処理の技術革新なども見られ、富士通が目指すパソコンづくりを支える技術がそろってきたのだ。そしてなにより、パソコンを使うユーザーのスキルが高まり、パソコンの業務利用が徐々に加速。市場の熟成が進んだ点は見逃せない。
FM-8の本体価格は218,000円。PC-8001の168,000円より50,000円も高価だったが、最新技術をふんだんに採り入れたFM-8の先進性と高機能に対する評価は高かった。FM-8の後を追うように、NECが高機能モデルの「PC-8801」(228,000円)を投入したのは1981年9月。性能も価格もFM-8を意識し、急遽開発したパソコンだった。第1号機の発売では2年近い差をつけられた富士通が、パソコン高性能機の投入では先行メーカーにインパクトを与えた。それが、富士通のパソコン市場への参入であった。
ただ、FM-8は高性能を追求した結果として高価な価格設定となったことで、爆発的に売れる製品ではなかったのも確かである。販売店ではFM-8を指名購入するユーザーが多かったものの、需要の中心となっていたのは他社の10万円台半ばのパソコンだ。「時代に先駆けすぎる」という、いまにつながる富士通のパソコン事業の「良くて、悪いクセ」は、このときから始まっている。
「富士通が最初に投入するパソコンとしてのコンセプトは間違っていなかった。だが、高機能化したことで価格が上昇。パソコン事業を加速させるためには、次の一手が必要だった」と、当時の関係者は振り返る。
FM-8を開発した富士通の電子デバイス事業本部では、1982年1月から新製品開発のプロジェクトチームがスタート。そこで生まれたのが、1982年11月に発売となったFM-7・FM-11だ。富士通の思惑通り、FM-7に連なる系譜が富士通を「8ビット御三家」と呼ばれるポジションへと一気に押し上げることになった。